「見る」とはどういうことなのか? 人は「見る」ことで何を認識するのか? 伊庭はこうした問いにさまざまな角度からアプローチを重ねてきた。2000年代のクッションや陶器をクローズアップした作品は視覚が呼び覚ます触感を強く感じさせた。2010年代半ばからはしだいに捉える範囲が広がり、モティーフと周囲の関係性がつくる空間や光が描かれる。そして2020年からは以前は「できない」と言っていた油彩による風景画の発表を始めた。近くにあるものの手触りから、直接には触れ得ぬ広い世界の体感へと描く対象が移るとき、「見つめる」から「眺める」へと見方も変わる。
風景画はこれまでの油彩と同じように写真をもとに制作されている。しかしどこか現実味が薄く見えるのは、赤外線フィルターをとおして撮影されたからだろう。人の目で見える風景からいくつかの要素が抜け、伊庭の関心に応じて光や色彩に強弱がくわわる。分け入ったり補ったり、見る側に参加を求めるような構造は変わらない。ある風景を見たときにもたらされる感覚は、どこか一部分に注目するというより全体を眺めるときに体感されるもので、風景を形づくる様々な具体的な要素や光や大気が共鳴して生み出される。今回の風景画はそうした感覚を抽出する試みのように見える。
陶製の動物などを描いた小品の新作は、制作中にカンヴァスを揺らし絵具を溶かしてイメージを変化させるという。つまり制作の一部を素材の特性と偶然性に委ねる。具体的なものを描きながら、そうしてある程度の具体性を覆う。これが目指すのは、ある物をそれと認識する前に見たときの、光や色彩、手触りなどを強く意識するよう感覚の喚起だろう。以前の作品が見る人の記憶と結びついていったのに対し、むしろ経験や知識と結ばれずに「見る」ことに意識を傾けているようだ。
映像をやってみたい、油彩で風景をやってみたい、そうした以前に語っていたことを伊庭は着実に実現させてゆく。新作の制作方法について話す伊庭の言葉からは、まだうまく言葉にならないもどかしさはありつつも、未知に挑戦するわくわくが伝わってきた。今後もまだまだつづく伊庭の探究と展開をとても楽しみにしている。
文:大橋 菜都子 (東京都美術館学芸員)
アーティストトーク 9月9日(土)
伊庭靖子×大橋菜都子(東京都美術館学芸員)
動画はこちらより