近年、経済のグローバル化やインターネットの日常化により、誰もが簡単に情報を得て、自分を表現することがで
きるようになりました。情報は爆発的に増加し、その中で私たちは、より刺激的で新しい情報や知識を求め、一見
して解りやすい、または多くの人に共感を得やすい物事にばかり興味を持ちがちです。こういった流れの中で、観
る側も作る側も大量な刺激にただ反応しているだけ、つまり一つ一つの事柄に対して深く思考しないという弊害が
起こり始めています。
私たちは、自分の判断基準で物事を選択できているのだろうか?
「丁寧に物事を見て、丁寧に介入する」
一つ一つの事柄に自分自身のやり方で時間をかけ、対応すること。
微妙で難しい物事の本質を見抜く、深く理解するためには、多くの時間が必要です。
(文:松尾孝之)
「そこ もの こと」の展示は、上記のようなアーティスト自身の問題意識に端を発しています。理解するために少々の時間を要す
る作品、研究の蓄積やちょっとした知識によって見え方の変わる作品、または表面的な見え方の奥に重要な気づき
が隠されている作品を制作しているアーティストによって、その手法について共有できる展示にしていこうとして
います。物の見方や手について、アーティスト自身で丁寧に紐解いていきたいと思います。
小瀬村真美 | Mami Kosemura
「わかりづらい」事ってそんなに悪いことなのだろうか? こんな疑問について、企画の始まりからずっ
と考えていました。 例えば、誰かがレシートの裏に書いた読めないメモについて。例えば、誰がそこ
に置いたかわからない道端の靴について。 わからない事があっても、わたしたちはそれをあえて考え
ないように、見ないようにして日々を生きています。無駄に頭を使わないように、足をとられて遅れ
をとらないように。本は 5 分で読み飛ばし、最短の道しか歩かないようにしています。
でも「わかりづらい」事って本当はとても魅力的でだったはず、と思い出してみます。例えば、詩の
言葉と言葉の心地の良いズレによってできる余白について。例えば、長い映画のラストに訪れる余韻
のような風景の意味について。例えば、一枚の絵の中にすっと入った赤い線の意図について。できれ
ば足をとられて、 そのまま思考の幸せな道草をしていたい。誰かが放った洗練された「わかりづらさ」
に足をとられる事ほど幸せなことはないのです。
近藤恵介 | Keisuke Kondo
今回の展覧会のために制作する作品に関するコメントを書こうとするが、いつにも増して全然書けな
い。この書けなさは、なぜかというと、断片を寄せ集めて、ドローイング帖に文字とスケッチが対等
な関係で混ざり合ったものとして記されている、部屋の隅に溜まったホコリのような作品プランはしっ
かりあるのだが、そのプランが、そのドローイングの散逸している状態が、好ましく思えていて、そ
れを文章でなぞるように説明すると、 散逸した状態が整頓されるように思えてできないし、混乱した
いいバランスからどのような作品ができるのかは、展覧会に来ればみることができる、としか言えない。
(2016.3.20)
以上は、2016 年に参加したMA2 ギャラリーでのグループ展「絵の旅」に際して書いた文章だ。ブツ
ブツ途切れながら、ゆるやかに繋がる文章のあり方を、当時の作品制作の方法と重ねながら書いたこ
とを読み返して思い出した。この7 年間で世界もぼくも大きく変わったが、文章はそのまま、この度
の展覧会「そこ もの こと」のステートメントとして読み換えることができるように思われる。そ
れは同時に、当時制作した作品を読み返し、読み換える可能性とパラレルかもしれない。絵は見える
ように描かれているからこそ、見えていないものに気づくこと。(2023.7.6)。
髙柳恵里 | Eri Takayanagi
見えづらいものを見ようとすること。展覧会に向けての4人の対話のなかで、この言葉が上
がりました。私にとって見えづらいものを見ようとすることは、どこか見たいイメージや感
触が予めあって、それを探し求める、ということではなくて、「何もない」と思っているよ
うなところで、いかに自分が見ていなかったか、という気付きとともに、知らなかったこと
を発見するようなことであり、それまでの自分ではないものに自分がなっていく、といった
ことに繋がることでもあります。さて、このことは環境に左右されることでしょうか。
静かで何もないようなところでこそ微かな差に気づく、ということはあるかもしれません。
しかし、騒がしい状況のなかにも派手で大きなもののなかにも、見えてくるものはあるでしょ
う。肝心なことは、環境よりもおそらくこちら側、自らのほうにあるように思います。自身
の意識、内側の機能、その瞬間の状態が左右する出来事です。
松尾孝之 | Takayuki Matsuo
近年、経済のグローバル化やインターネットの日常化により、誰もが簡単に情報を得て、
自分を表現することができるようになりました。情報は爆発的に増加し、その中で私たちは、
より刺激的で新しい情報や知識を求め、一見して解りやすい、または多くの人に共感を得や
すい物事にばかり興味を持ちがちです。こういった流れの中で、観る側も作る側も大量な刺
激にただ反応しているだけ、つまり一つ一つの事柄に対して深く思考しないという弊害が起
こり始めています。
私たちは、自分の判断基準で物事を選択できているのだろうか?
「丁寧に物事を見て、丁寧に介入する」
一つ一つの事柄に自分自身のやり方で時間をかけ、対応すること。
微妙で難しい物事の本質を見抜く、深く理解するためには、多くの時間が必要です。
Soko-Mono-Koto
Whereabout, Things, Action
This exhibit is about “trying to see things that are difficult to see”. (Not about being visually invisible.) It features works that at first glance do not seem to reveal the artist’s intent.
Not simply by looking at things that are normally out of sight, but by noticing the artist’s perspective and the detailed processes that the artists have added to the work, the work itself and the surrounding environment will appear differently.
Exhibition statement
In recent years, the globalization of the economy and the generalization of the Internet have made it possible for everyone to express themselves and obtain information easily.
Therefore, information increases explosively, we tend to seek new and more stimulating information and knowledge, and to be interested only in things that are easy to understand at first glance or that many people can relate to. In the course of such a process, we are losing the faculty to properly look, experience and think about things deeply.
”Do we see and think things according to our own criteria?”
Looking at things courteously and intervening courteously.
It means taking time and responding to each matter in its own way.
A lot of time is needed to see and deeply understand the essence of things that are subtle and difficult.