岡崎和郎・大西伸明 「Born Twice」、大西伸明個展「光体」について 2004年に発表したコップをモチーフにした作品がある。その後、形や素材などを変えながら一旦僕の中では完成した(つもりであった)作品なのだが、内と外の境界が溶け合ったようなそれに岡崎さんが興味を持ち、その作品に呼応する形で岡崎さんが作品を制作し、展覧会にて同じ展示台に並べることがあった。それが起点となり今回マルチプルとして出版することに繋がっている。幾度かのやりとりの後、自宅に石膏の作品とガラスと石膏を使った作品の2つと、僕が知る限りでは見たことの無いレディメイドのコップ作品が届いた。岡崎さんの、コップを軸にしてある意味振り切った作品群を前に、完成していると思っていた作品をもう少し深掘りする必要があるということに悩んだ。しかしこの作品と僕のぼんやりしたアイデアが、何か大きな仕事に変わりそうだなという予感を感じていた。その過程を本として出版することにして、加治屋健司さんに名付けて頂いた「Born Twice」という言葉を与えた。とても静かであるが実物の数ミリの違いを数値化できたり、素材を徹底した過程が色濃く本に残されて、岡崎さんと完成を喜んだ。 起点となった僕のコップの作品を岡崎さんはピュアと呼んだ。だからこそ、本当に2つ並べる必要があるのかどうか2人で考える必要があった。インドの詩聖・タゴールは「コップの水は小さな叡智であり、純粋で濁りがなく透明だ」と言っている。その純粋な状態を解体し、もう一度提案できるのかということが今回2人で問うた問題でもある。このマルチプルと本の展示に併せて、2人で考えた過程を自分なりに解釈し、オブジェや写真作品などを展示することを考えている。小さく純粋な形から余白が生まれ、岡崎さんへの想いや、何度かリセットせざるを得なかった厳しい過程や様々なものが飲み込まれて完成したマルチプルの、暗くて深い、底の見えない海のような叡智から、もう一度コップを発光させることができるだろうか。
「展示台のオマージュ」 岡崎さんの昔に出版された作品集にポートフォリオ写真があった。その中に岡崎さんが制作したと思える棚が写っていた。棚は天に向かうと薄くなるよう斜めにカットされたようにデザインされていた。その棚をオマージュ的に制作し、Born Twiceマルチプルを置くことにした。天に向かうほど光に溢れるように。
「中庸集め」 自分自身含めて世の中のあらゆるものは複製可能であり、様々な方法で複製される。一つの存在がいくつかの方法で複製された時、その出来上がったコピーとの差異を見たり、元の存在に思いを馳せるだけでなく、例えば虚と実の間、その間の集まりの足し算が、何か掛け替えの無さにつながっているのではないかと最近考えている。 「漆黒の闇」 漆黒の闇と表現される漆の黒は、磨き上げることでさらに鏡面化する。鏡面に映し出されるのはポジの世界であり、漆の表面を見ることはできない。つまりコップの虚空間を表すことに最適な素材である。裏側に映し出される表側。 「発光とは物質である」 写真は銀塩写真の科学反応である黒と、印画紙の紙の白である。印画紙の上に置かれたフィルムを操作し、現像された一回きりの画像が、大量生産品である紙というモノに置き換わり発光する。 「デカルコマニーの反転の反転」 デカルコマニーはそもそも紙に写し取られた絵の具である。その剥ぎ取られた表面をポジとして捉え、印画紙に焼き付けると反転した画像が生まれる。写されたイメージがまた写される。