Alice, Ecila and you
あなたとわたしと髙田姉妹の話をここに記す。
(髙田姉妹の話はさっさと終わらせる)
外見が似ていると言われる人間がいて、遺伝子が同じだと言われる人間がいて、しかし二人は別人だと言われて、その違いの決定的なポイントは? とかんがえて、わたしは、髙田姉妹が「ひとりは右利きで、ひとりは左利きだ」と聞いた時に、そういうことなのかと了解する。
わたしは脳内に鏡をイメージして、なあんだ、そういうことなのかと納得する。
わたしは鏡に、わたし自身を映してみる。映して、見る。
そこにはわたしがいて、「これこそわたしだ!」と思い込んでいるのだけれども、わたしが永い歳月、顔のこちら側にそれがあって、と見做していた特徴は、顔のこちら側には本当はない。
頭のこちら側にあって、と見做していた特徴は、じつは頭のあちら側にある。
さて、あなたにひとつふたつ、質問を投げかけてみる。
鏡面に映っているあなたは、(あなたが右利きだったとして)右利きですか? 左利きですか?
(あなたが左利きだったとして)右利きですか? 左利きですか?
では右腕は右側にありますか?
鏡の内側のあなたの、どちらが右腕のある右側ですか?
もしかしたら、鏡像の右側とは左腕のあるほうだ、なあんて、写真のように誤解したり、していませんか?
第二の質問。
アリスは ALICE という名前だから、これが反転すると ECILA になる。エシーラとかエサイラとか発音される(かもしれない)名前になる。
それは、欧米の鏡に映ったアリスだ、と強引に説明することもできる。
それでは日本の鏡に映ったアリスは?
文字の順番が反転するのだから、スリアになる。
と、勝手に答えを言ってしまったけれども、どうして ALICE は ECILA になったのに、アリスはスリアになるのか? もしも ECILA がエシーラとかエサイラとか読まれるのならば、アリスが反転したら、ラーシエやライサエになるのが理の当然ではないか?
そこで、どうしてそうなるのか、を答えてもらえませんか?
というふうにあなたを悩ませる展覧会がこの、髙田安規子・政子(髙田姉妹)の『Going down the rabbit hole』で、そもそも来場者は、展覧会名にしたがってウサギ穴を降りようとしていたのに、このギャラリーには縦のトンネルはない。垂直の穴がない。来場者(のあなた)は一階から、徒歩で、登って、順に見るしかない。これを展覧会名に対する反転の行為とかんがえることは、そう傲慢ではない。しかしながら、ウサギ穴を「落下」する行動の、その反転が、ギャラリー内の四層を「舞い上がる」行為にならないことが、アリスの反転名が ECILA にはならずスリアである的な、(どこか通底している)一種のねじれである。
みっつめ、よっつめの質問を投げかけてもよいですか?
(さっさと答える必要は全然ありません)
ものには名前があって、それが「もの」そのものを示している。とわたしたちはかんがえる。
たとえばハンモック。
そこで、わたしたちは眠ることができる。なにしろハンモックとは人間用の(網製や麻布製の)寝床なのだから。
それでは、人間が眠ることのできないハンモックは、なんですか?
つぎ。椅子、とはなんだろう。椅子とは、定義するならば、人間が腰を下ろせる道具で、そうしたものを椅子という。
それでは、人間がどうしたって腰を下ろせない椅子は、なんですか?
さらにつぎ。時計とは、いかなる装置か? 名前のふた文字(の漢字)を見れば、たちまち了解されます。時を計るから「時計」。なるほど、とあなたは納得するはずです。
それでは、もはや時は計れない時計は、どういう名前で呼んだらいいんですか?
あなたはたぶん、髙田姉妹の『Going down the rabbit hole』展で、最初に「人間が座れない(かもしれない)椅子」を見てしまって、なのに、それを「椅子だ」と思ってしまう。それから、鑑賞を続けて続けて、やがて最上層で、「人間が休めない(かもしれない)ハンモック」や「時をもはや計れない(ことが確実の)時計」に遭遇し、なのに、それらを「ハンモックだ」「砂時計だ」と思ってしまう。
じつは、それはちょっと、やばいことですよね。
やばいし、楽しいことですよね。
スケールを変えた事物、反転した事物を、目の前にしたら、あなたがスケールをちぢめたり膨張させたり、あなたのほうが反転したりしないかぎり、それも思いっきり「ねじり」を入れながら反対にならないかぎり、そこにある椅子を椅子と呼んだり、鏡と呼んだりしては、いけない。なんて。
それはちょっと、ワンダーがいっぱいですよね。
だから楽しい。
アリスはワンダーの国にいて、その wonder は不思議と訳されるのだけれども、I wonder ... のワンダーでもあって、いちいちの事物に「……かしら?」と思うことでもあって、そのたびに、「え、マジすか?」と言ってしまうのに近い。wonderland は不思議の国なのだけれども、あなたの反射的な行動は、むしろ wonderland をマジすかランドと言わせてしまう。
それもまた日本の鏡にアリスを映すことでもある、と、あなたは『Going down the rabbit hole』展を眺め、眺め、さまよいながら、もしかしたら合点する。
古川日出男
あなたとわたしと髙田姉妹の話をここに記す。
(髙田姉妹の話はさっさと終わらせる)
外見が似ていると言われる人間がいて、遺伝子が同じだと言われる人間がいて、しかし二人は別人だと言われて、その違いの決定的なポイントは? とかんがえて、わたしは、髙田姉妹が「ひとりは右利きで、ひとりは左利きだ」と聞いた時に、そういうことなのかと了解する。
わたしは脳内に鏡をイメージして、なあんだ、そういうことなのかと納得する。
わたしは鏡に、わたし自身を映してみる。映して、見る。
そこにはわたしがいて、「これこそわたしだ!」と思い込んでいるのだけれども、わたしが永い歳月、顔のこちら側にそれがあって、と見做していた特徴は、顔のこちら側には本当はない。
頭のこちら側にあって、と見做していた特徴は、じつは頭のあちら側にある。
さて、あなたにひとつふたつ、質問を投げかけてみる。
鏡面に映っているあなたは、(あなたが右利きだったとして)右利きですか? 左利きですか?
(あなたが左利きだったとして)右利きですか? 左利きですか?
では右腕は右側にありますか?
鏡の内側のあなたの、どちらが右腕のある右側ですか?
もしかしたら、鏡像の右側とは左腕のあるほうだ、なあんて、写真のように誤解したり、していませんか?
第二の質問。
アリスは ALICE という名前だから、これが反転すると ECILA になる。エシーラとかエサイラとか発音される(かもしれない)名前になる。
それは、欧米の鏡に映ったアリスだ、と強引に説明することもできる。
それでは日本の鏡に映ったアリスは?
文字の順番が反転するのだから、スリアになる。
と、勝手に答えを言ってしまったけれども、どうして ALICE は ECILA になったのに、アリスはスリアになるのか? もしも ECILA がエシーラとかエサイラとか読まれるのならば、アリスが反転したら、ラーシエやライサエになるのが理の当然ではないか?
そこで、どうしてそうなるのか、を答えてもらえませんか?
というふうにあなたを悩ませる展覧会がこの、髙田安規子・政子(髙田姉妹)の『Going down the rabbit hole』で、そもそも来場者は、展覧会名にしたがってウサギ穴を降りようとしていたのに、このギャラリーには縦のトンネルはない。垂直の穴がない。来場者(のあなた)は一階から、徒歩で、登って、順に見るしかない。これを展覧会名に対する反転の行為とかんがえることは、そう傲慢ではない。しかしながら、ウサギ穴を「落下」する行動の、その反転が、ギャラリー内の四層を「舞い上がる」行為にならないことが、アリスの反転名が ECILA にはならずスリアである的な、(どこか通底している)一種のねじれである。
みっつめ、よっつめの質問を投げかけてもよいですか?
(さっさと答える必要は全然ありません)
ものには名前があって、それが「もの」そのものを示している。とわたしたちはかんがえる。
たとえばハンモック。
そこで、わたしたちは眠ることができる。なにしろハンモックとは人間用の(網製や麻布製の)寝床なのだから。
それでは、人間が眠ることのできないハンモックは、なんですか?
つぎ。椅子、とはなんだろう。椅子とは、定義するならば、人間が腰を下ろせる道具で、そうしたものを椅子という。
それでは、人間がどうしたって腰を下ろせない椅子は、なんですか?
さらにつぎ。時計とは、いかなる装置か? 名前のふた文字(の漢字)を見れば、たちまち了解されます。時を計るから「時計」。なるほど、とあなたは納得するはずです。
それでは、もはや時は計れない時計は、どういう名前で呼んだらいいんですか?
あなたはたぶん、髙田姉妹の『Going down the rabbit hole』展で、最初に「人間が座れない(かもしれない)椅子」を見てしまって、なのに、それを「椅子だ」と思ってしまう。それから、鑑賞を続けて続けて、やがて最上層で、「人間が休めない(かもしれない)ハンモック」や「時をもはや計れない(ことが確実の)時計」に遭遇し、なのに、それらを「ハンモックだ」「砂時計だ」と思ってしまう。
じつは、それはちょっと、やばいことですよね。
やばいし、楽しいことですよね。
スケールを変えた事物、反転した事物を、目の前にしたら、あなたがスケールをちぢめたり膨張させたり、あなたのほうが反転したりしないかぎり、それも思いっきり「ねじり」を入れながら反対にならないかぎり、そこにある椅子を椅子と呼んだり、鏡と呼んだりしては、いけない。なんて。
それはちょっと、ワンダーがいっぱいですよね。
だから楽しい。
アリスはワンダーの国にいて、その wonder は不思議と訳されるのだけれども、I wonder ... のワンダーでもあって、いちいちの事物に「……かしら?」と思うことでもあって、そのたびに、「え、マジすか?」と言ってしまうのに近い。wonderland は不思議の国なのだけれども、あなたの反射的な行動は、むしろ wonderland をマジすかランドと言わせてしまう。
それもまた日本の鏡にアリスを映すことでもある、と、あなたは『Going down the rabbit hole』展を眺め、眺め、さまよいながら、もしかしたら合点する。
古川日出男