ふたつの変容、ふたつの黒鉛
今回の展示は、「鉛筆と紙」という「一番シンプルな画材を使って無限の表現をする松谷武判作品と関根直子作品を同じ空間で」見せたい、というギャラリー主宰者の長年の思いが発端となっている。
松谷武判は、「誰もやらないことをやれ」、あるいは「自由であることを具体的に示せ」と標榜した戦後関西の前衛的美術集団「具体美術協会(具体)」の作家として活動を開始した。当時手掛けた、ボンドを用いて有機的な形態を生じさせたレリーフ状の作品は現在に至るまで継続されている、松谷作品の代名詞ともいうべきものだ。それに加えて、もう一つ松谷の制作を特徴づけるものとして、版画制作を経た後、1970年代の終わり頃からあらためて「直接的な」表現として取り組んだ、鉛筆で「一線一線積み重ねて」いった面の表現が挙げられる。長大なロール紙や立体物、ボンドによるレリーフの表面を「黒くなるまで描き込んだ」作品群で、こちらも40年以上にわたって制作され続けている。1966年の渡仏以来、パリを拠点に活動を続ける作家にふさわしい、ゆるぎないスタイルと言えるだろう。今回展示される作品は、この、鉛筆の表現にフォーカスしたものとなる。
関根直子が鉛筆を用いて描き始めたのは大学3年生の頃だ。「自分の引いた線によって次の自身の動きが導かれる」という言葉から、その制作の根底に、身体的、触覚的なドローイングがあったことがうかがわれる。対象を持たずに引かれる“線”から始まった関根の制作は、次第に、絵を成り立たせている(とされる)諸要素を一つ一つ分解し、自身で確かめていくような試みへと敷衍していくことになる。例えば、線、色彩、画面の寸法、フレーム、描くときの鉛筆と紙の接する音、イメージ…。遠い過去や美術以外の芸術、建築、科学なども参照しながら、それらをそれぞれ自立したものとして確かめ、試し、扱うことで、全体として、あるいは複合的に作品の総体が立ち上がってくるのを期すのである。このことはまた、空間における作品の配置や構成への働きかけなどを通して、“絵”を体験することについて、当初より一貫した関心を寄せ続けていることとも繋がるだろう。関根の作品は、画面に何かを描くのとは“別の仕方で”存在する絵画を目指しているといえる。今回は、とりわけ色彩の試行が興味深い。いくつもの作品において、色は色のまま、混ざることなしに立ち上がってくる。
さてそこで、鉛筆の表現である。
松谷の黒鉛は「黒くなるまで描き込んだ」という言葉の通り、むしろ、その表面をカバーする“面”であるように思う。概ね同じストロークで太く繰り返されるこれらの線の痕跡からは、それに費やした時間の堆積とともに、作家が追求し続けている一種の有機性、運動性といった要素につながる律動のようなものが観察される。様々な様態の線を引くというよりも、行為の遂行と物としての質の追求が目指されていると言え、物質と律動の合一、あるいはイメージを物質化させる感がある。松谷の具体時代の仕事は、具体の価値であった「物質と行為」をイメージをもつ絵画表現へと止揚させたものであったと言われる。生殖や繁殖、「波や雫」といった生物や自然の有機性、流動性を想起させるかたちやイメージは松谷が一貫して手放さなかったものだ。ボンドのふくらみの上に塗り込められた黒は、黒鉛の性質上、見る角度や光の具合により「墨に五彩あり」といった複雑な表情を見せるが、それ以上に鉱物的な外観を与え、フォルムを形作る繊細なひだや起伏の陰影を見事に拾って見せる。松谷の鉛筆は、線を引くというよりも、何か、立体に対する振る舞いに近いのではないだろうか。
関根は、鉛筆による制作の感覚として、「質のために塗り込む側面と、ドローイング的な側面との双方の感覚がある」と話している。「それは立体と平面の間を媒介するようなものだ」と。
関根の、見る者とその空間を取り込むような鏡面状の画面を持つ作品は、ガッシュを塗りこめた面に色彩、そして鉛筆の光沢を重ねることで成り立っている。黒鉛はほぼ全体を覆い光沢を生じさせているが、描線はガッシュをのせた刷毛目と交差し、さらに描線とは異なる微細な粒子が舞うことで、複雑な多層が実現している。その背後からは色味が漂うように浮かび上がり、画面に反射する持つ色と混ざりながら都度、色彩が生成する。「色が画面の中に出たり入ったりする」という言葉の通り、見る者と画面との間に作品それ自体が生起するようだ。あるいはそれは「画面」に限らない。ここまで「画面」と書いてきたけれど、それすら関根にとっては、自明ではなく確認すべき要素の一つである。“絵”はどのように生成し、感知されるのか。関根の作品は独特の論理と観察により、その問いを引き受けている。黒鉛の鉛筆の光沢と交差する線はここでは、作品の生成の場―見る者の体験の中でその都度統合されていく多面的な場を探る、一つの自立した要素となっている。
二人の黒鉛の仕事は、各々が、“描くのとは違う仕方で”、未踏の地を進むようになされてきたものだとあらためて思う。この度、作品同士が相照らし合い、その双方をともに見つめ、体験できることは喜びである。
鎮西芳美(学芸員)
photo:柳場大
今回の展示は、「鉛筆と紙」という「一番シンプルな画材を使って無限の表現をする松谷武判作品と関根直子作品を同じ空間で」見せたい、というギャラリー主宰者の長年の思いが発端となっている。
松谷武判は、「誰もやらないことをやれ」、あるいは「自由であることを具体的に示せ」と標榜した戦後関西の前衛的美術集団「具体美術協会(具体)」の作家として活動を開始した。当時手掛けた、ボンドを用いて有機的な形態を生じさせたレリーフ状の作品は現在に至るまで継続されている、松谷作品の代名詞ともいうべきものだ。それに加えて、もう一つ松谷の制作を特徴づけるものとして、版画制作を経た後、1970年代の終わり頃からあらためて「直接的な」表現として取り組んだ、鉛筆で「一線一線積み重ねて」いった面の表現が挙げられる。長大なロール紙や立体物、ボンドによるレリーフの表面を「黒くなるまで描き込んだ」作品群で、こちらも40年以上にわたって制作され続けている。1966年の渡仏以来、パリを拠点に活動を続ける作家にふさわしい、ゆるぎないスタイルと言えるだろう。今回展示される作品は、この、鉛筆の表現にフォーカスしたものとなる。
関根直子が鉛筆を用いて描き始めたのは大学3年生の頃だ。「自分の引いた線によって次の自身の動きが導かれる」という言葉から、その制作の根底に、身体的、触覚的なドローイングがあったことがうかがわれる。対象を持たずに引かれる“線”から始まった関根の制作は、次第に、絵を成り立たせている(とされる)諸要素を一つ一つ分解し、自身で確かめていくような試みへと敷衍していくことになる。例えば、線、色彩、画面の寸法、フレーム、描くときの鉛筆と紙の接する音、イメージ…。遠い過去や美術以外の芸術、建築、科学なども参照しながら、それらをそれぞれ自立したものとして確かめ、試し、扱うことで、全体として、あるいは複合的に作品の総体が立ち上がってくるのを期すのである。このことはまた、空間における作品の配置や構成への働きかけなどを通して、“絵”を体験することについて、当初より一貫した関心を寄せ続けていることとも繋がるだろう。関根の作品は、画面に何かを描くのとは“別の仕方で”存在する絵画を目指しているといえる。今回は、とりわけ色彩の試行が興味深い。いくつもの作品において、色は色のまま、混ざることなしに立ち上がってくる。
さてそこで、鉛筆の表現である。
松谷の黒鉛は「黒くなるまで描き込んだ」という言葉の通り、むしろ、その表面をカバーする“面”であるように思う。概ね同じストロークで太く繰り返されるこれらの線の痕跡からは、それに費やした時間の堆積とともに、作家が追求し続けている一種の有機性、運動性といった要素につながる律動のようなものが観察される。様々な様態の線を引くというよりも、行為の遂行と物としての質の追求が目指されていると言え、物質と律動の合一、あるいはイメージを物質化させる感がある。松谷の具体時代の仕事は、具体の価値であった「物質と行為」をイメージをもつ絵画表現へと止揚させたものであったと言われる。生殖や繁殖、「波や雫」といった生物や自然の有機性、流動性を想起させるかたちやイメージは松谷が一貫して手放さなかったものだ。ボンドのふくらみの上に塗り込められた黒は、黒鉛の性質上、見る角度や光の具合により「墨に五彩あり」といった複雑な表情を見せるが、それ以上に鉱物的な外観を与え、フォルムを形作る繊細なひだや起伏の陰影を見事に拾って見せる。松谷の鉛筆は、線を引くというよりも、何か、立体に対する振る舞いに近いのではないだろうか。
関根は、鉛筆による制作の感覚として、「質のために塗り込む側面と、ドローイング的な側面との双方の感覚がある」と話している。「それは立体と平面の間を媒介するようなものだ」と。
関根の、見る者とその空間を取り込むような鏡面状の画面を持つ作品は、ガッシュを塗りこめた面に色彩、そして鉛筆の光沢を重ねることで成り立っている。黒鉛はほぼ全体を覆い光沢を生じさせているが、描線はガッシュをのせた刷毛目と交差し、さらに描線とは異なる微細な粒子が舞うことで、複雑な多層が実現している。その背後からは色味が漂うように浮かび上がり、画面に反射する持つ色と混ざりながら都度、色彩が生成する。「色が画面の中に出たり入ったりする」という言葉の通り、見る者と画面との間に作品それ自体が生起するようだ。あるいはそれは「画面」に限らない。ここまで「画面」と書いてきたけれど、それすら関根にとっては、自明ではなく確認すべき要素の一つである。“絵”はどのように生成し、感知されるのか。関根の作品は独特の論理と観察により、その問いを引き受けている。黒鉛の鉛筆の光沢と交差する線はここでは、作品の生成の場―見る者の体験の中でその都度統合されていく多面的な場を探る、一つの自立した要素となっている。
二人の黒鉛の仕事は、各々が、“描くのとは違う仕方で”、未踏の地を進むようになされてきたものだとあらためて思う。この度、作品同士が相照らし合い、その双方をともに見つめ、体験できることは喜びである。
鎮西芳美(学芸員)
関根直子 ステイトメント
私は、その場から立ち上がってくるような絵を描きたいと思っています。その考え方から紡ぎ出される絵は、“モチーフやイメージを描く” 感覚とは異なっています。絵を構成す
る色、線、マチエールやイメージ等の要素は同等に自立して、“図像を描く為の要素” ではない形で扱われます。
今回、松谷武判さんの作品に触れ、考えていく中で、松谷さんの作品にもそれに似たようなアプローチを感じ取っています。平面の土台にボンドで形成した形を造り、それが鉛筆の黒鉛で覆われるという作品。平面と立体の間に介在できるのが黒鉛であり、黒鉛の色が、塗りこめられるときにはある物質感に到達し、それでもなお線描である為に、その物質感から線までのなだらかな変容を、私は松谷さんの作品の中に見ています。“Mirror Drawing” という私の作品も鉛筆によるドローイングですが、この作品も、黒鉛が、線であり同時に強調された質であるという変容を見せています。そして、今回私が1 つ享受したことは、形についてです。松谷さんの作品に見られる柔軟で実態的な形は、私の中でしばらく興味として留まっていました。私は以前から、幾つかの違うサイズのパネルで1つの絵を構成し、それがその作品の空間を実態的に示す、という作品を造っていました。今回はその展開を展覧会でご覧いただけます。
2021 年の夏に、パリの松谷さんのアトリエを訪ねました。状況的に難しいかもしれないと思っていましたが、快く受け入れてくださり、楽しい時間を過ごすことが出来ました。
その時には、互いに物質的であることへの興味を共感できたと思い、とても印象に残る訪問となりました。今回、このような機会を得ることができ、大変光栄に思っています。