かつての花、面影を持たない実 ―分割不可能な絵画の出来事―
理念と画面上に筆先が触れる度に繰り広げられる無数の現実は、結論からすれば一致することなどあり得ない。
ミクロからマクロに至る様々なレベルにおいて、画面の中で生成される現象は、事物、時間、身体を巡る不断の変化の中で、
宿命的に共鳴する時を待っている。溶解する現実と虚構の切断面、色彩、混ざりあうマテリアル、反復しながら全てが異なる始まりと終わりがない場所
-「絵画」。
昔、ヨーロッパの何処かで満開に咲く桜を見た。今思い返すと、たぶんあれはアーモンドの花だったのだろう。
アーモンドの花の記憶を遡りながら、同時にフィンセント・ファン・ゴッホの絵《花咲くアーモンドの木の枝(1890)》を想い浮かべた。著しい変化の渦にあった19世紀の黄昏時、フィンセント・ファン・ゴッホは弟テオに息子が誕生した際、「この上なく嬉しい」という手紙を送り、母アンナに「その子の為に、青い空を背景に白い花をつけたアーモンドの木の枝の絵を描き始めた」と報告している。冬の終わりに花を咲かせるアーモンドの花は、まさに新しい季節の予感を象徴する希望のメッセージがしっくりとくる。 ところが、この花の記述(花言葉)を調べてみると「希望」、「真心の愛」/「軽率」、「愚かさ」という対照的なニュアンスの意味が記されていることに気付く。 そこには、ある物語が根差しているようだ。 紀元前5世紀トロイア戦争からの帰路にトラキアに立ち寄った青年デモフィーンは、トラキア王の娘フィリスと恋仲になり、本国での任務に片が付き次第戻り結婚する約束を交わしたが、本国ギリシャに戻った彼は、もっと美しい少女に心を奪われ恋に落ちてしまう。そうして彼はフィリスのことを忘れてしまう。一方フィリスは、デモフィーンの帰りを待ちわびて毎日海岸に立ち尽くし、いつしか病に倒れその命は絶えた。そして神々は、その亡骸をアーモンドの木に変え待ち続けたフィリスの証として残した。この逸話からアーモンドの花と実は、フィリス=「希望」、「真心の愛」、デモフィーン=「軽率」、「愚かさ」という、二つのメッセージを象徴することとなった。神話のように、長い時代を経て語り継がれるストーリーには、教訓や寓意が含まれることがしばしばある。それは、時代、社会、環境により要請される解釈も変容するだろう。しかし、このアーモンドの花言葉は、すれ違う人間の性や、尺度を越えた意義を私たちに気付かせてくれる。つまり「希望」と「軽率」は、「未来」という分割不能な両義性が接続され続ける時間軸において、一方に比重がかかる際、背中合わせとなる他方の蓋然性も姿を現すのだ。
世紀を跨ぐ長い時間軸と共に歩む芸術に対する人々の要求は、ささやかな日常の問から、人間の生を支える原理的なところまで、さまざまな質と度合を持ちうる。視覚的な芸術である絵画について、表層の可視化された意味を越えてリアリズムを再創造するための諸課題は、その考察に深度が加わることにより、他者、世界、過去と未来へと開かれるだろう。
つつましやかな花から端を発し成熟する実は、かつての花とは少しも似つかない。しかしその二つは、時に同じ名前で語られる。
薄久保香